みちのく通信

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野添憲治さん ②

引き続き、野添さんの本より。

野添さんは秋田県の県北の出身。

花岡事件のことを書いた理由は、自分が国民学校の頃(いまでいう小学生のころか)花岡事件で逃げてきた中国人二人が野添さんの村で捕らえられ、さらし者にされていた。

当時「軍国少年」だった野添さんが、そうとも知らずに、先生の言われるままに「チャンコロ(昔、中国人をこうして蔑視していた)の人殺し!」と叫び、つばを吐いた。

そのことが、戦後、自責の念にかられて、「戦争責任とは何か?」を考えるようになったことなどがきっかけのようです。

野添さんは、今年の4月に亡くなりましたが、私の父と同じ世代だったことに気づきました。

父も小さいころは戦争を体験しています。

私の父も今は80歳代ですが、元気に暮らしています。

野添さんは県北の貧しい農家の出身。

貧しかったゆえに学校にもろくに通えなかったようです。

一方、私の父は、秋田市の街のまんなかで生まれ育ちました。

結構、裕福な商家だったようですが、長兄が戦争に行ったことや、両親がなくなったりで次第に没落していったようです。

やはり戦中戦後は食べ物に苦労したようです。

父は戦時中は旧制中学(今の高等学校です)に通っていました。

当時も英語の授業があったようですが、英語は「敵国語」と言われ、憲兵などが教室にやってきて、憲兵が英語の先生を外に連れ出してひっぱっていったこともあるとも話していました。

ですが、その先生はひるむことなく「これからの日本は、国際化する、そのために英語が必要になる、だから君たちは英語を勉強しなさい」とおっしゃっていたと話していました。

戦時中の福島県内の都市部でもこうした気骨ある旧制中学(今の高等学校にあたる)英語の先生はいたようで、新聞で知りました。

こうしてみると、生徒にそんなことをさせる、

野添さんのいた学校の先生はなんという不勉強というか、視野の狭さが際立ちます。

当時は、みなこんな感じだったんでしょうか。

同じ秋田県内でも田舎の郡部と父のいた都市部では、戦時中といっても、先生の質や教育の質が格段にちがっていたのだなあと思いましたね。

学校もろくにいけなかった、そんななかで自分の頭で考え、足で取材して多くの本を残した野添さん。

野添さんのように、自分の頭で考え行動する人、

一方で

人に言われるままになんの疑問もなく暴言暴動をはたらく人、

その違いや差ってどこから来るのだろうと思いました。